The History of Akita Cedar



Photo:Akira Ishida  二ツ井町荷上場のスギ人工林

佐竹藩の林政改革
Forestry Reform in the Satake Clan

 秋田杉は建築用材、船舶用材として近世から注目されるようになった。当時の正確な記録は残されていないが、戦国時代、城や町が焼亡して建築材の需要が高まり、米代川上流の杉が伐採された。
 秋田杉が有名になったのは秋田実季の時代、太閤検地(1582年頃から90年頃)以後のことであろう。文禄の役の出陣に際して豊臣秀吉が乗る船を造ったこと、また淀川で用いる淀船の材料として使用されたことなどによる。また、秀吉の隠居場である伏見城造営のとき、作事板として大量に使用されたことが記録に残っている。
 徳川政権になった直後、常陸54万石の佐竹氏が秋田へ国替えとなった。20万石(実質18万5000石)への転封で、藩の財政は当初から苦しく、財政安定のため、新田開発とともに鉱山・木材資源の利用が重要課題となった。しかし秋田杉は大量伐採により、元禄以降の100年間でほぼ切り尽くされてしまった。
 こうした事態になり、佐竹藩ではさまざまな林政改革が行なわれた。なかでも、宝暦の改革(第二期の改革。1751年から62年)における「番山繰制度」は特に名高い。これは30年ごとに、決められた地域のみから順に木を切り出していくというもので、改革の柱となった。
 また、文化2年(1805)から天保5年(1834)まで、佐竹藩の木山方(森林行政の官庁)の職にあった賀藤清右衛門(景林)は、さまざまな改革を進めて林政の基礎を固めた。
 こうした藩の努力によって保護された森林は、明治維新後、国有林として新政府に引き継がれた。その面積9万5000ヘクタール。これは米代川流域にある県内国有林の、およそ四分の一に相当する。


秋田杣子造材之画  秋田県立博物館蔵

木の伐倒作業を描いたもの。この画帳は幕末から明治初期の夏山と冬山の作業を写生した貴重な資料である。絵師の名は不明


秋田杣子造材之画  秋田県立博物館蔵  

筏流しを描いたもの。一枚の筏には普通二人で乗ることが多い。能代の河口近くになると流れがゆるくなるので、「アオリ」と言う櫓を使って漕いだ


Photo:Takao Hatakeyama

小掛の山神社。山を司る大山祇命(おおやまつみのみこと)を祀る神社で、享保8年 (1723)に建てられたとされる。秋田杉の里の守り神である

 Akita cedar was one of the crucial revenue sources of the Satake Clan, in what is now Akita Prefecture, but the resource became depleted over a hundred years from the early seventeenth century. This compelled the clan to carry out various reforms. Among them, "Banyamaguri-seido" is especially famous. It was an original system of the clan to cut down cedar in specific areas in a thirty year rotation. The forests conserved by the clan were taken over by the newly established government after the Meiji Restoration and were included in national forests. The total area amounted to 95,000 ha.