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秋田県屈指の農業地帯
The Largest Agricultural Area in Akita
Photo:Gensaku
Izumiya
青々とした早苗が美しい五月の水田。「秋田こまち」で名高い仙南村にて
県南東部・横手盆地の北に広がる仙北平野は、雄物川、玉川、丸子川など、奥羽山脈から流れ出る諸河川によって形成された複合扇状地である。かつては川の氾濫が多く、またしばし
ば流れが変化し、そのため河跡湖や沼、湿地が多いところであった。
しかし、長い間放置されていた原野も、江戸時代以降、土木改良工事や用水開発事業がさまざまに試みられた結果、いまでは秋田県屈指の穀倉地帯となり、とりわけ良質の米どころとしてよく知られるようになった。中国には「水を治める者は国を治める」という言葉があるが、日本でも同様に多くの為政者たちは治水に取り組み、農地を広げてきたのだ。また、このことが明治以降の国土の基礎づくりにも大いに役立ったのである。
なかでも、昭和になってから国家事業として田沢疎水の建設が進むにつれ、原野は次第に緑豊かな田園に姿を変えた。仙北平野一帯は、現在、米と野菜作りを中心とした農業が盛んであるが、これは長年にわたる用水事業、開田、土地改良、そして稲の品種改良など、さまざまな努力を重ねてきた結果である。
As the construction of Tazawa-sosui
canal progressed as a national project in the Showa era, the Senboku Plain
were turned into rich green fields. The present success in rice and vegetable
production is the result of long and hard efforts including irrigation projects,
land development and improvement work, and the continuous breeding of rice.
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田沢疎水と灌漑事業
Tazawa-sosui Canal and Iirrigation
Projects
県内屈指の米どころも、かつては扇状地特有の水不足に悩まされ、さまざまな灌漑事業が試みられてきた。藩政時代、玉川から取水して六郷方面に灌漑する堰を作ったのが田沢疎水の
始まりであるが、明治期に洪水のため使用不能となった。
本格的な事業として昭和12年(1937)に工事が開始され、同36年(1961)に第一田沢疎水が完成し、田沢湖町神代から仙南村金沢にかけての枯水は克服された。角館町広久内の玉川からと、東北電力(株)神代調整池より取水し、約6000ヘクタールを開田するという大工事であった。
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同38年(1963)からは、第二次疎水開拓建設工事が開始されたが、農業政策の転換などにより計画どおりには進行していない。
なお、田沢湖を利用した灌漑用水は、田沢疎水以外にも潟尻用水、刺巻用水、若松堰用水、仙北平野土地改良区用水などがあり、田沢湖町、西木村、角館町、中仙町、大田町、千畑町、仙北町、六郷町、大曲市、仙南村といった仙北平野の各市町村におよんでいる。
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Photo:Tadahisa
Sakurai
玉川頭首工と田沢疎水(細い流れ)。角館町広久内付近
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The
first-stage Tazawa-sosui canal project was started in 1937 and was completed
in 1961. It solved the water shortage problem in the surrounding 6,000 ha
area. The second-stage reclamation project was then started, but it did
not go as planned due to changes in agricultural policy and other reasons. |
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仙北の歴史
History of Senboku
昭和5年(1930)、仙北平野のほぼ中央で古代の城柵官衙跡と推定されている「払田柵」(ほったのさく)が発見された。面積87万5000平方キロの大遺跡である。新野直吉氏の説によれば、平安時代に坂上田村麻呂(758〜811)が築いたとされるが、東漸した大和朝廷が、これに屈しない東北勢力に備えたもので、軍事・行政両面の機能を持つものと考えられる。なお、仙北一帯には坂上田村麻呂の名をとどめる史跡が多数残っている。
仙北一帯は長い間、大和政権に服属しなかった安倍氏の勢力下にあったが、前九年の役で滅びた後は清原氏の治下になり、平泉文化の影響を強く受けた。その後、小領主に分割統治されたが、慶長年間(1596〜1615)の佐竹氏移封に伴い、その領地となった。
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Photo:Tadahisa Sakurai
復元された東北古代の役所跡払田柵(仙北町)
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地理的には南部盛岡、庄内山形を結ぶ要衝にあり、平野を貫く雄物川は仙北米をはじめとする物流の大動脈として舟運が発達し、おおいに賑わった。雄物川と玉川の合流点にあった神岡町神宮寺、雄物川と丸子川の合流点のあった大曲は特に川湊として繁栄をみた。また、付近一帯は良質の水と米に恵まれているため、むかしから酒造りが盛んであった。 |
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In
1930, 1,200 year old remains (Hotta-no-saku) were found at the center of the
Senboku Plain. They are assumed to have been military and administrative facilities
built by the Yamato Imperial Court, whose power was increasingly extended
to eastern Japan. In those days this area was ruled by a powerful clan who
resisted the domination by the court and did not obey the court. After a long
time, the Satake Clan took control of Senboku in the Edo period, and river
ports prospered with domestic trade on the Omono-gawa River. Roads were also
developed. Quality rice and pure water in the area promoted a sake brewing
industry.
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仙
北
平
野
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