稲住温泉の先代、押切永吉は当地の素封家で文芸趣味があり、自ら俳句をたしなんだ。そんな関係から、昭和20年4月、武者小路実篤一家が戦乱を逃れて疎開してきた。疎開中に実篤が記した『稲住日記』には、これを歓迎した押切との交流が書きつづられ、戦後、80歳になったときには「最も印象強き月日をここに送りたり・・・」としたためた一文が贈られてきた。また昭和43年には、この文を刻ん だ記念碑が庭園に建立された。
 いまでも大切に保管されている宿帳をひもとくと、小杉放庵、石井鶴三、中村一政といった著名画家たちをはじめ、多くの芸術家、文人、さらに華族、首相たちの署名も散見され、興趣が尽きない。
 
武者小路実篤と小杉放庵の
署名が並んだ宿帳
「浮雲」と名付けられた
ロッジ風の洋館棟
 さて稲住温泉には、じつはもうひとつの顔がある。それは建築関係者が一度は訪れたいと願う「聖地」としての顔である。昭和27年に建てられた白亜の洋館は、白井晟一の設計によるもので、翌年から10年がかりで建てられた「離れ」とともに、当温泉の大きな魅力にもなっており、毎年、全国からたくさんの建築科の学生が見学に訪れる。
 
洋館二階の廊下は
設計者の意図により角度がある
移築された「秋の宮村役場」の外観
 洋館は「浮雲」と名付けられ、二階は54畳の和室、一階は栗材をふんだんに用いた洋間で、現在は会議室になっているが、当時はダンスホール、バー、卓球室があった。一方離れの山荘は4室あり、それぞれ茶室、寝室、居間、浴室が備わっている数寄屋造りで、入り口には白井建築の特徴でもあるアーチ型の形状がデザインされている。
 また、前庭の一隅には、白井の初期代表作でもある「秋の宮役場」(1951年)が移築されている。アルプスの麓にあるような赤いロッジ風の建物は、今日の目から見るととても役場とは思えないお洒落な建築である。
 

●武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ。1885−1976)。

小説家、劇作家、画家。
学習院高等科在学中トルストイに傾倒、1910年志賀直哉らと雑誌『白樺』を創刊し、個人主義を主張。やがて空想的社会主義の実現を試みて「新しい村」を興す。関東大震災ごろからは人間の生命をありのままに肯定・賛美する小説・戯曲を発表した。代表作『お目出たき人』『真理先生』『友情』など。野菜やくだものを描いた個性的な絵や書でも良く知られる。

●白井晟一(しらい・せいいち。1905−83)。

建築家。
京都高等工芸卒後、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で哲学と建築を学ぶ。ドイツ哲学の観念世界を建築に生かそうと試みた。初期にはドイツ建築と日本建築の特質を融合した個人住宅を手掛けた。戦後、秋の宮村役場(51年)をはじめ、地方の公共建築を手掛ける一方、幾何学的構成を特徴とする、瞑想的空間を作りだした。また、書家としても知られる。最近、稲住温泉の洋館「浮雲」という名前は、ヨーロッパ留学中に出会い、恋愛関係にあった林芙美子の文学作品から命名した、という研究も紹介された。代表作「親和銀行本店」(佐世保)、「ノアビル」(東京)、芹沢_介美術館(静岡)など。