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博学多才な人物像
宝暦4年(1754)〜文政12年(1829)。生年は、宝暦3年説もある。江戸中期から後期にかけて活躍した、国学者・民俗研究家・画家・紀行家・随筆家・本草学者・考古学者。本名は白井英二であるが、知之、秀超などとも名乗る。天明3年(1783)に最初の旅に出てからは、白井秀雄のペンネームを使用した。享和元年(1801)、再度秋田入りしたあと、一時、白井真隅を名乗ったが、文化7年(1810)から「菅江真澄」を使用する。 三河国渥美郡(愛知県豊橋市およびその周辺)の生まれで、父の名は秀真、家職は祈祷施薬であったという。青年期に尾張の国学者で熱田神宮の祠官・栗田知周の知遇を得、また尾張藩の薬園で薬草の栽培に携わり、本草学を修得した。安永6年(1777)に、尾張の儒者丹羽謝庵から漢学を学んだ。 30歳で故郷三河を出て以来、みちのく、蝦夷地を中心に47年間を旅に暮らした。その間、百種200冊もの著書を残した。その形態は日記、図絵、随筆、地誌、雑葉集からなるが、内容は民俗、歴史、地理、文学、考古、宗教、科学など多岐にわたっている。特に擬古和文による旅行記は厖大な量にのぼり、著者自身の手になる美しい挿絵とともに、近世後期の常民の生活を客観的に記した貴重な記録となっている。 |
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原画は真澄が『月の出羽路・仙北郡』編纂のため、板見内(仙北町)を訪れたと きに描かれ たものといわれる |
真澄の著書は、存命中の文政5年(1822)に秋田藩藩校・明徳館に献納された。 また、明徳館の事業として編纂された『雪の出羽路 平鹿郡』『月の出羽路 仙北郡』も明徳館に献納された。明治4年(1871)、明徳館本は佐竹家に移管され、昭和19年(1944)には秋田市辻兵吉の所有となった。その後、昭和32年(1957)、『自筆本菅江真澄遊覧』89冊として秋田県有形文化財に、また平成3年(1991)には国の重要文化財に指定されている。 真澄についての研究は、没後間もなくはじまっている。石井忠行、真崎勇助、石川理紀之助などが先鞭をつけ、昭和になってからは、深沢多市らにより『秋田叢書』『別集・菅江真澄集』を発刊、真澄の著作を活字本として紹介した。没後百年祭には柳田国男が来秋して、真澄研究を呼びかけ、自らも多くの論文を発表した。戦後は、柳田門下で鹿角市出身の内田武志が数 多くの業績を残している。とりわけ、それまであまり顧みられなかった随筆や図絵を 活字本にし たこと、難解な擬古文で書かれた原本を現代語訳にして『菅江真澄遊覧記』(平凡 社。宮本常一と共著)を発刊し、真澄の名を大いに高めたことなどは特筆される。また、宮本とともにまとめ た『菅江真澄全集』(未来社)の解説・解題のなかでも、注目すべき研究成果を発表 している。 |
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秋田の地誌をくまなく記録 天明3年(1783。東北地方大飢饉)、三河を出発した真澄は長野、新潟、山形を経て翌年秋田に入る。天明5年蝦夷地に渡ろうとこころみたが果たせず、岩手、宮城方面を巡り、天明8年再び蝦夷に渡るため北に向かい、7月に松前に着く。松前・江差・福山・函館など、寛政4年10月まで蝦夷滞在。寛政4年(1792)から翌年にかけて下北半島、寛政7年に津軽を旅し、享和元年(1801)11月に再び秋田に入る。 |
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二ッ井の米代川右岸から、七座山を望む。 |
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文化8年佐竹義和より秋田六郡の地誌編纂の内命があったが、藩内で反対する意見もあり、さらに義和公の死去(文化11年)によってこの計画は中断した。しかしこの間も久保田(秋田)、雄勝、仙北、平鹿などを巡歴。文政7年(1824)、藩より編纂事業再開の命があり、平鹿郡に向かう。『雪の出羽路・平鹿郡』完成後、『月の出羽路・仙北郡』の調査を開始したが、完成を見ずに文化12年(1829)7月19日、角館の神明社鈴木家で没した。 | |||||||||
Sugae Masumi (1754-1829) was a writer who was in his prime in the middle to late Edo period. He was active in various fields as a Japanese classical scholar, folklorist, artist, travel writer, essayist, herbalist, archeologist, and so on. The details of the first half of his life are not. He left his home in Mikawa, now Okazaki City in Aichi Prefecture, at age 30. Over the next 47 years he was always on the move, mainly in Tohoku and Hokkaido. He authored about 200 books on about 100 subjects. In particular, he wrote extensively about his travels, which remain as precious records that objectively describe the life of common folk at the time, and include beautiful illustrations he did himself. He elaborately investigated the northern area of Akita and wrote a topography series during his later days, but they were all unfinished because of his death. | |||||||||
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